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読書、旅行、音楽について

日本海・下関旅行

8月末~9月頭に行った旅行で勉強したことについて。

 前半はJR西日本/金沢総合車両所松任本所(旧・松任工場)の一般公開に行ったり(27日)、旧・出雲国出雲郡に行って旧・出雲国ついて勉強したりした。

【金サワ/松任本所】

  配線を見に行ったが、思ったよりも単純だった。国鉄車両の三角コーナーと化していた。f:id:DiesIrae:20170908002943j:plain

 

【旧・出雲国

 

 「水運」がキーだと感じた。というのも、当初出雲大社は川合(川がY字に合流する合流地点)にあったり、近くまで神門内海が侵食していたりと舟が安全に停泊できる環境にあり、海洋貿易上極めて優位な立地にあったから。
 以下の話が印象的。
 ①糸魚川で採取されたヒスイ(奴奈川姫)が日本海経由で出雲郡に輸入されたということとこの地で銅戈(八千矛=大国主命。※大陸でいう「矛」と異なる)が作られたということを奴奈姫と八千矛の結婚(古事記)で表している可能性がある。
 ②荒神谷遺跡(出雲市斐川町神庭)で銅剣358本(国内最多)、銅鐸6個、銅戈16本が出土した。尚、それぞれの大多数に×印が付いているが、奈良県で出土する出土品からも同様の印が見られる。意味は不明であるが、既に出雲国大和国に亘る「連絡」が見られるのが恐ろしい。加茂岩倉遺跡(雲南市加茂町岩倉)では39個(国内最多)の銅鐸が入れ子になった状態で出土し、同様の印が付いている。問題となる材料の銅であるが、当時日本に銅山はなく、大陸から輸入した可能性が高いという。

 広大な海洋貿易圏を感じさせる。現代の感覚で見ると島根県は不便な地、と思うかもしれないが、「海運」という切り口で切ると、東西日本・大陸が日本海経由でつながれた「街道」にある。それにしても、祭祀目的とはいえ近隣の部族が358本もの銅剣を持っていては脅威である。複数部族の対立を抑えるため、緩衝地帯に埋めた等の説もあるそう。自分は、他部族に侵略された際奪われないように隠匿しているのかと思った(実際この説もある)。
 「水運」以外にもすごいと思ったのは数理的能力である。出雲大社の本殿を始め、一々数字で距離・大きさ等が出雲国風土記で詳述されている。出雲大社本殿の階段(一町=109m)は、途中に楼門があったとされることを考えると疑問だというが。

 出雲古代歴史博物館で参考資料*1を買ったので、それを読んで詰めていきたい

 

後半は山陰本線山陽本線等に乗ったり、主に旧・周防国及び旧・長門国を廻って益田氏や萩藩等について勉強した。

 

長門国

 

①本山岬
 旧・長門国の本山岬(小野田線本山支線長門本山駅から徒歩30分くらい)に立つと、左は宇部、正面~右側は四国~国東~関門海峡(全然海が見えない)と一続きの山脈のように見えた。水運的には絶好の地であろう(この瀬戸内地方で回天の演習や残存軍艦の停泊があったのも納得)。海に行くと、波の引き際、さーっと黒い粒が移動する。波紋の黒い。これはどうやらどこかで石炭が露顕しているようだ(そういえば八幡製鉄所でおなじみの八幡は海の向こう)。また、古墳時代の蛸壺も打ち上げられるというから、探したら、あった。放射性炭素等で年代を同定したいくらいだ。

 

赤間神宮
 境内に入ったと同時に水天宮の上の部屋で雅楽が始まった。境内の展示によると、水天宮があるところは海だったようだ。白い所が海に水没している景色を海からみたら、さぞかし美しいだろうと思う。当然だが、平家物語を読んだうえで行った方が面白い。薩摩守・忠度など、屏風のネタがマンネリ化(失礼)している気がした。それにしても、平家物語で絵を描くといえば「那須与一」「忠度」等、最近はこの手の「定番ネタ」が全般に通じなくなったのはなぜだろう。鉄道のタダ乗りのことを「薩摩守」というなど、以前は古代から現代までの連続性があった気がする。

 

周防国

 ①大寧寺 
 大寧寺で自決した大内義隆は本当に悔しかったろうと思う。姿見に池を見て、自分の顔が映らないことを見ないと決心もできなかったろう。そう思いながら山道を上っていると見たことのない大きな白い鳥が山から下りてきて境内を一回りしたのち、境内の高木の頂上に留まったのが印象的だった。大寧寺までの参道に多くのお地蔵さんが並んでいて(しかもそれぞれ顔が異なる)、おかげで道に迷わず行けた。西国四十八箇所の御利益兼道しるべの役割があるのだ。昔の人は合理的だ。

 

②萩藩(=長州藩
 萩藩は、特に毛利斉元・敬親の財政改革(「仕組(しくみ)」といったそう。天保二年(一八三一年)の農民一揆に衝撃を受けて)が関心を引いた。藩債(現在でいう地方債か)の償還を急いで利息が付利されるのを防ぐなど、斉元の細やかな財政改革が見られる。萩城内の祖霊社に「厳封」で「(名指しこそしないものの)斉煕(なりひろ)に神罰を」等と書いていることからして、自分の知らないところで豪奢を極め、家臣に不満を募らせ、農民一揆まで招いた斉煕に対する怒りが見られる。斉煕は、実子・斉広(なりとお)と将軍家斉の娘・和姫を結婚させることで自身と斉広が「少将」位を得るなど、財政危機時にすべきでない事をしていた(当然、挙式や贈答にカネがかかる)。個人的には、手元のカネが無いのであれば、藩債を償還するよりも寧ろ長期債をバンバン新発すべきだと思った。時代を下って、明治政府成立後は「一部の藩債については全て債務不履行(デフォルト)とする」等の政策が取られ、藩政と比べ明治政府の財政は初歩的な感がした。このあたりの財政について、もっと詰めていきたい。

*1:島根県古代文化センター(H28)『解説 出雲国風土記(第4版)』今井出版。当時の詳細地図も付いていてとても分かり易い。