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「藤圭子劇場(CD6枚組)」を買いまして

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2016年(平成28年)10月19日から出荷開始の「藤圭子劇場(ソニーミュージック)」を買いまして、聴きました。46年経ってやっとCD化。特に渋谷公会堂公演CD化に関しては意義が大きい。これの値段はいろいろ入れて1万2000円くらいだが、1万は渋谷公会堂公演、1500円は新宿コマ公演、500円が残り3枚分という感じに思われる。

 

CDをかけた瞬間に一番ゾッとするのは、LPでもそうだろうが、「池袋の夜」の前奏。

「港が見える丘」「星の流れに」「銀座カンカン娘」と最初の方で連続で歌っている。この部分が一番好き。「港が見える丘」は、ソプラノサックス(オーボエ?)の音が思ったよりも遠くから聞こえる。そして、特に「銀座カンカン娘」を聴いて思うのだが、藤圭子(と、宇多田ヒカルも)の白眉は、アーティキュレーション(発音)とリズムの調節力(リズム感)ではないだろうかしら。例えば「星の流れに」3番の発音。

  ルージュ 悲しや 唇噛めば

  闇の 夜風も 泣いて吹く

テンポよりも引き気味で歌って泣いている。そして、特に、「闇の」の部分は(それ以外に於いても日常的にみられるが特に)、「や」が「子音、というかこの場合は半母音(i)+母音(あ)」に分れて聴こえる。「唇噛めば」の後の空白に対して、ヌッと子音/半母音をすべり込ませて、母音でビブラートをかけて情感を出す。特に夜、明かりを消して聴くと、眼前に終戦直後の東京の闇空が(それと心の闇を掛けているわけだが)展開するような心持になる。藤圭子にしても宇多田ヒカルにしても、「英語かと思ったら日本語だった」「音としての日本語は聞こえるが意味は入ってこない」という現象が生じるのは、この子音と母音の分離にあるのでは、と思っている。子音でテンポを摑み、母音でビブラートを掛けたり音程取ったりしているのか?

 

リズム感は、「銀座カンカン娘」などのテンポゆるやかな曲を聴くと分るが、0.1秒単位で早く出る、遅く出るということが出来る。頭でいちいち考えていてはとても歌えないから、おそらく感覚的に出来る。この点、宇多田ヒカルもそう。

 

これらのリズム感・発音は、苦行苦行のドサ回りで、客の反応を見ながら身に付けたのだろうか。今のテレビと違って、歌った瞬間に観客から(または家の人から)表情を通してレスポンスが返ってくるから、最も人々の心にくるように歌うようその場で修正されていくのだろうか。それの成就か。

 

にしても、さよなら藤圭子公演は、高音が下手というか、Nでアクセル踏んでいるような。歯応えが無いというのか。支えの低音が問題なのか?(それまでは低音でタメて、高音で展開するような歌い方) 

 

変な事を言うが、レコードを音源としたユーチューブ動画の方が良いかもしれない。