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藤圭子は「暗い歌手」か?

1950~1980年は日本人が「生きていた」感じがする時代であると思っている。それを最も体現したのが、変なことに「暗ぁ~い歌手」としてデビューさせられた藤圭子だと思っている。以下に色々理由らしきものを示す。

【戦後の、生への意思】戦後直後は生きるためならなんでもやった。それは、

1、「戦争が終わったのに今から死んでたまるか」というクソ意地、

2、「男なら一度の敗戦・・・もとの日本にして返せ(こういう歌があったと佐々淳行『焼け跡の青春・佐々淳行』文春文庫40頁)」という意地

によるもので、高度経済成長まで人々の間で戦争は続いていた。貧困、物資不足という形で。実際の戦争で兵士や防火組として死ねばそれは栄誉ある戦死、無念の戦死となるのに対して、戦後は死んでもそれはただの「野垂れ死に」で、「負け」である。死が近づくと生が意識される。食管法を遵守した人(東京地裁の裁判官や帝国大学教授など)もいたが、それは権力側の意地によるもので、一般人はそんな法律も当然そっちのけで腕が抜けるくらいの食料の大荷物を田舎から運び込んだり、列車で丸二日間たちっぱなしで食料調達に行ったりと、「法よりも現実」の主義で生きるために動いた。現代から思うと、そこに「生」を感じる。

 

【生とは生々しい】岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫あたり見れば分るとおり、岡本太郎は「美とは『綺麗ね~』で済むようなものではなく、もっと生々しく、露骨で、こちらの身に迫ってきてそのため不快感さえ与えるものだ」というようなことを言っていて、それはそのまま生命にあてはまるとする。実際、米兵が落とした食べかすに駆け寄ってそれを食べる光景、全員が食料調達のために列車に詰め込んで乗り込む光景からは生々しいという感じがする。

 

藤圭子の表層】藤圭子も「戦争は知らないがその影響をもろに受けた」1950年代生まれで、しかも東北・北海道で吹雪の日も一家で歌を歌って回ることで生計を立てていた。

色々あってスカウトされて東京に来て巡業するようになるのだが、東京で沢ノ井龍二(石坂まさを)に会い、以後藤圭子石坂まさをに引っ張られるようにして活動を展開する。石坂まさをがすごい人物で、なにがすごいのかというと熱量。五木寛之『怨歌の誕生』双葉文庫石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋を見ればわかるが、藤圭子に生を掛けている。

注意すべきは、藤圭子がデビューする1969年(昭和44年)あたりは小野田さん、横井さんの帰還や三島由紀夫自決など、「戦争の影は少しずつ消えていったが、貧困や思想的反発から、『街がキレイになってゆくという復興』に乗り遅れた人々が出てきて差が生まれてきた」時代という事。五木寛之は、藤圭子は「民衆からの無言の怨みを知らず知らず巡業によって集めて、あの歌声になった」というようなことを言っているが、趣旨は分かる。殴られても蹴られても、結局反抗はしないがしかし闇の中からジッと無言で睨んでいるような怨みを歴史上無名である民衆に感じる、というようなことで言語化しがたいのだが。

そうした時代のなかで、いわば不幸を売りにして、人々に「藤圭子=不幸な子」のイメージを植え付けることで石坂まさを藤圭子デビューに成功した。このあたり、前出の五木寛之の本に収録されている短編(藤圭子デビュー前に発表)に似ていて、石坂まさをはこれを参考にしたのでは、と疑う。デビュー後も、石坂は藤圭子に対し「なるべく笑わない様に」徹底し、かつ、父親・母親について不幸を週刊誌に流し続ける事で、「藤圭子=不幸な子」のイメージを定着・更新し続けた。それによってレコード販売も伸び、空前絶後の記録に達した。

 

藤圭子の本質】1970年10月23日の渋谷公会堂の公演は1周年記念で、当時19歳である。しかし、生涯で最も上手い音源である。1955~1969、1970~1985、1986~1992と分けると最初が春日八郎、三橋美智也三波春夫水原弘で、真中が日本の文化レベルが圧倒的に世界最高だった時代、最後はそのおつり、そしてバブルでパアという感じだが、その1970~1985にあって圧倒的差をつけて上手い。

1、そもそも藤圭子は、芸歴が長いので声に持久力もあるし、天性で上手い

2、(五木寛之に言わせれば)当時はまだ「怨み」に裏付けされた歌声をもっていた

3、渋谷公会堂の音響が最高

4、バックの演奏がよく歌声にマッチしている(対して昭和46年サンケイホール公演の演奏はひどい)

あたりが理由だろうか。2はよくわからないが。

私は「星の流れに」「港が見える丘」「長崎は今日も雨だった」が特に好きだというのは置いといて、藤圭子はその公演で戦後からの代表曲を選んで歌った。歌唱から勿論五木寛之の言うようなことも感じるのだが(「星の流れに」の3番、「闇の夜風も」のあたり等)、なによりも、「ああ、この人は今まで這ってまで生きてきてとうとうここに至ったんだな」というように、強い生命力を感じる。考えてみれば、吹雪の中、一軒一軒回って歌を歌い、ある日は寺の縁下で寝て生きてきて、やっと渋谷公会堂に至った人に、強い生命を感じないはずがない。踏まれてもなにされても生きていく、という図太さを感じる。岡本太郎の言に通じると思われる。藤圭子というと、「あの自殺した人ね」という感じが最近だが、19歳で頂点を極めて人よりも早く大人になった人が、残りの人生何をしようというのか。*1

 

石坂まさをの功罪】上のような感じで、結局「這って生きてきた」藤圭子は、石坂まさをにより「藤圭子=不幸な子」という生涯消えない刷り込みをさせられた。それによって爆発的に売れはしたが、同時にそこが藤圭子の限界になってしまった。つまり、聞き手からすれば「藤圭子=不幸な子=闇」という理由で、他の歌手と別枠で、なにか見てはいけないものを見たような、これからの社会で埋もれていくような感じ(実際、この後は花の中三トリオなどで、更にその後はバブル世代になり文化レベルは世界頂点から真っ逆さまに転落する)である。藤圭子が明るい歌を歌えば、「似合わない」「らしくない」ということになってしまう。新宿で自殺をすれば、「やっぱり『新宿の女』ね」と言われて、もう見返されることは無い。(そもそも歌謡曲全体がもう見返されなくなってきている)

藤圭子 港が見える丘 昭和45年10月 渋谷公会堂 - YouTube

*1:当時の人間は今の人間と比較にならないくらいはやく大人になったのに、その彼らよりもはやく大人になったのである

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